ジョジョリオンはつまらない、その理由とは。
この記事は、ジョジョリオンを読み終えて、他のジョジョファンの感想や評価を知りたいという方たちに向けて発信したい。考え方の一つとして参考となれれば。なお、ネタバレを含むことから十分にご注意を。表題のとおりであるが、さっそくジョジョリオンにおいて気になるポイントを挙げていきたい。
遠隔自動操縦の敵が多すぎる
まず、ジョジョリオンに登場する敵のスタンドは遠隔自動操縦タイプが多い。これはこれまでの部で描かれてきたスタンドバトルに対する冒涜といえるかもしれない。つまりこの部はあまりにも強敵が多すぎるのだ。
あのサイキック・ギャング抗争である、殺意の応酬でキレキレの5部に匹敵する遠隔自動操縦タイプの多さ。ドゥービーワウはまさに死闘、文字通り息詰まる展開。オゾンベイビーは三つ巴による心理戦がベストバウトの一つという呼び声が高い。
また遠隔自動操縦タイプと独り歩きしているタイプのスタンドは、同じ「独立タイプ」という最強格の括りにできると思うのだけれど、オータムリーブスとかミラグロマンとかもめちゃくちゃ面白いし、何より物語の締めにその権化であるワンダーオブユーは最高すぎる。
そしてしっかりバトルのインフレを導入してきているのだ、しかも目立たぬようにしっとりと。
常秀が不快すぎる
次に、常秀が本当に不快だ。しかし気持ち悪すぎて逆に清々しい。そしてスルメのように味わい深い男として認知されつつある。評価は時代によって変わっていくものだ。
このような人間は定助の相棒でなくて良かったし、序盤に相棒枠がいないジョジョはとにかく斬新だった。
名物キャラとしては常秀の他に、田最や常敏は言わずもがなで、個人的には密葉も何とも言えない魅力があるし、ジョジョリオンは本当に多彩だ。
定助に感情移入できない
記憶喪失の主人公定助への感情移入は難しい。そしてそんな人物の単体でのバトルが多い。
しかしこのストーリー的にもメタ的にも孤独な戦いは、チーム戦や群像劇などで描いてきた歴代のバトルに対し明確に一線を画している。するとやっぱり新しいし、確かにオルタナティブ(別の手法)だと気づかされる。
さらにソフト&ウェットの能力が「何でもアリに思える」という感想があるとしたら、それは見解の相違かもしれない。ユーティリティ(有用性)があるからこそ定助による単独バトルが成立するし、それらは後述のギミックには必要な要素なのだ。
またソフト&ウェットとペイズリーパークのヴィジュアルだけで、ジョジョリオンは既に十分に価値がある。シリーズ中でも相当にグッドデザインであるし、ソフト&ウェットのあえて細いが確実に硬質な両腕から繰り出される「鋼の鞭」のようなラッシュ。スタープラチナが究極の打撃なら、こちらは究極の斬撃だ。
透龍の目的や背景の掘り下げが浅いし、登場があまりにも遅いラスボスで、どうしても倒さなければいけない存在と思えない
…と感じる方も多いと思うが、透龍はラスボスではない。便宜的にラスボスと呼んできたし、今後もそう呼んでも構わないのだろう。しかし正確にはラスボスではないし、作者が連載中に発言した「ラスボスがいるかわからない」旨を概ね実行した格好となる。
ワンダーオブユーもあくまで怪異であり、厄災にバックボーンは無いし、共感することも無い(そして第一話から怪異と厄災の不穏は常に漂っている)。こんなラストバトルは今までになかった。なんと8部にして初の試みだ。
また、岩人間ほど凶悪な生命体はいない気がする。ロカカカ6251、アレは明らかに”医療技術”ならざるものであり、最終的には”生物兵器”であるとしか思えない。目的を達成したと仮定した、各部のラスボスらによる殺人統計を予想すると
1部 19世紀のイギリスの人口
2部 全人類が該当し得る
3部 全人類が該当し得る
4部 数十人
5部 ヨーロッパにおける特定の層
6部 なし(死に至らしめるわけではない)
7部 19世紀のアメリカの人口に相当する各国民
8部 全人類が該当し得る
ではないだろうか。カーズとDIOに匹敵しているのだ。
しかしながらこうも考える。もし将来的にアニメ化するのであれば、要領を得ずともまあまあの人気がある透龍戦こそをあえてカットするべきではないか。原作がここまで尖りまくっているのだから、アニメにも是非とも反骨の姿勢を見せてもらいたい。そう、難敵・田最環を倒した後に半話ほどのエピローグを挿入して―。例えば杜王スタジアムを舞台にした逸話などで、原作の謎を全て回収しながら幕引きしたら…すごくクールじゃあないか。
10年は長すぎる
長かった。しかしぶっちゃけると「10年やってみたかった」のではないだろうか。
これについては荒木先生の向上心であり、茶目っ気だ。実際に記録更新となったわけで、以下は参考に。
1部 約1年
2部 約1年半
3部 約3年
4部 約3年半
5部 約3年半
6部 約3年半
7部 約7年
8部 約10年
ホリーが助からない
不条理だ。しかし物語の構造上、最初からホリーが救われることは困難であったのかもしれない。岩人間の存在が生命の滑り止めであると同時に、地球にとって待望の新薬であると考えた場合―。
ジョジョサーガのテーマ「人間賛歌」とは、人の性善も性悪も全てを肯定することのはず。とはいえ、ここまで環境破壊(戦争・飢餓なども含む)という看過できない大問題を抱える人類を賛歌だけで表現でき得るものなのか。動かないアンソロジーの「ドリッピング画法」でも、環境問題への皮肉が垣間見えるように、そもそも賛歌だけでは乗り切れない事態になっているのが現在の我々が住む”惑星”だ。
病から解放されない”聖母”ホリーはこの問題点における特異点であり、人間賛歌に対する裏テーマの象徴みたいなものなのでは…という気がしてならない。
霧がかった世界観
まるで白昼夢のような日常に、表情が乏しい町民。
もしも仮に、ストーリー全体に「並行説」という壮大なギミックが仕掛けられていたとしたら。あの魅力的な杜王町がこのような変貌を遂げたことにも意味があるのではないか。
ジョジョリオンにおける「全ての伏線は実は既に回収されているかもしれない」という考察はこの度完結した【至】、そして【極】や【ANSWER】で言及したとおり。
ちなみに【ANSWER】で登場した「BADASS」。これってまさにジョジョランズだ。ジョジョリオンで描かれなかったことが、それに呼応するかのようにジョジョランズで描かれているのか。
結論 -とどの詰まり-
ジョジョリオンはそれまでの各部に対するカウンターカルチャー(反骨精神)である。作者としては本人が再三言っているとおり、同じことを繰り返しても意味がない、ということなのだろう。
ジョジョリオンとは決して詰まる(答えがでる)ことのない物語だ。そして面白いし、興味は尽きない。
ジョジョサーガ全体を一つの作品と見立てた場合の間奏(あるいはCメロ)がジョジョリオンなのか。
ジレンマを描き切ったジョジョリオンが、最後のラスサビを盛り上げるインタールードであったのか否かは…今はまだ誰にもわからない。
PS.
以下は名曲ドライフラワーの歌詞で対応してみたものである。
1部Aメロ
多分私じゃなくていいね
2部Bメロ
もしいつか何処かで会えたら
3部サビ
声も顔も不器用なとこも
4部サビ
全部全部嫌いじゃないの
5部サビ
ドライフラワーみたい君との日々も
6部間奏(Aメロ・Bメロ)
instrumental(多分君じゃなくて良かった)
7部サビ
きっときっときっときっと色褪せる
8部間奏(Cメロ)
instrumental(月明りに魔物が揺れる)
9部ラスサビ
ずっとずっとずっとずっと抱えてよ
2025/5/8
★関連考察リンク
JOJOLION EP1【THE ANSWER】:KARERA EFFECT
*過去主義と未来主義についての考察
*未来主義に特化した解釈
*実践的な討究と結論